よもやま話 人事・経営編
大経営者
シャープが減資をするそうだ。
夜中に発表して、翌週株価を大きく下げた。
これは意地の悪い見方をすれば、一般株主を騙し討ちにして生き延びようとしたようにも見える。
どうも最近の経営者はやることが小さい。
シャープに限らないが、大企業の経営者からいわゆる「大物」が減ったように感じる。
なぜこういう経営者が増えてしまったのだろう。
昔は一本筋の通った堂々とした経営者がたくさんいたものだ。
ホンダもソニーも松下も、大経営者が凛として存在していた。
私は先月からいろいろな経営者に会っている。
最近たまたま風変わりなDMを打ったので、それに反応してくれた変わった経営者(失礼、良い意味で)から連絡をいただいている。
比較的小さい会社が多いが、皆大変面白い経営者ばかりだ。
10数社お会いしたが、みんなそれぞれ味がある。
地味な人、派手な人、元気な人、おとなしい人など、いろいろいるが、信念を持っている経営者と話をしているとやっぱり面白い。
皆、独特の魅力をもっている。
会社の大小ではない。
特に、この10年くらいで会社を興した小さい会社の経営者には面白い人が多いと感じた。
大企業に大経営者がいなくなってしまったように見えるが、中小・ベンチャーには、まだまだ骨のある将来の大経営者がいるようだ。
「会社は経営者で決まる」とあらためて思った。
良い経営者と悪い経営者の違いは何だろうか。
いろいろ要素はあると思うが、最も大きいのは「人生観」と「オーナーシップ」ではないか。
そして、ブレずにやり抜くこと。
教科書通りではなく、自らの価値観で会社を経営している人は見ていて面白い。
人事の話
創業間もない会社にも人事は必要だ。
もちろん「人事部」などは必要ないが、「人事」という仕事は必要だ。
米国の大手企業のCEOも「私の仕事の9割以上は人の問題を解決することだ」と言っていた。
「人事」というと人事異動や昇給、評価、採用などと思いがちだが、そうではない。
人に関わること全てが人事なのだから、極論すれば「業績を向上させる」のも人事の仕事なのだ。
たとえば、ある商店でなかなか売上が上がらないとする。
品揃えが悪いのか、品質が下がったのか、客の好みが変わったのか、接客がいけないのか、競合店に客を取られているのか。
社長以下全員で真剣に考え的確な手を打つ。
この「全員で真剣に考え的確な手を打つ」ことができる状態を作り、維持、改善していくことも人事の大きな役割の一つだと言って良い。
良くなるのも悪くなるのも、すべて原因は「人」だ。
人をどうするかで会社が決まる。
社長以下全員の持っているあらゆる能力を全て出し切って戦える状態にするために「採用」「教育」「評価」「給与」「配置」「昇進」「昇格」などがあるのだ。
だから、あまり一つひとつの各論にばかり目が行き過ぎては本来の目的を忘れてしまう。
すべてが一つの大きな流れを形成していないと企業としてのパワーは生まれてこない。
デジタルとアナログ
先日、知合いが建てた別荘へ行った。
その人は小さな会社の経営者だが、ジャズが好きで、その別荘にはデジタルの高級オーディオシステムがある。
かなりその道に詳しい人なので、生半可なシステムではない。
CD何千枚分もの曲を入れたシステムをiPadで手早く操作する仕組みも作っており、私も「凄い」と感心したものだ。
しかし後日、試しにそのシステムにアナログプレーヤーを繋ぎジャズヴォーカルのレコードをかけて聴いてみたそうだが、その音がくだんの自慢のデジタルオーディオシステムのそれを遥かに超える素晴らしいものだったらしく、本人はたいそう落ち込んでいた。
話は飛ぶが、明後日に株主総会を行う大手家具メーカーでは、創業者の会長(父)と現社長(娘)が壮絶なプロクシーファイトをやっている。
それぞれの会見を見る限り、会長がアナログで社長がデジタルに見える。
「経験・勘・度胸」(昔で言うところのKKD)の父親と「理論・データ・合理性」の娘の相容れない経営方針の違いによる争いだ。(本当のところは血が繋がっているが故のもっと根深い相克なのかも知れないが)
どちらに軍配が上がるかわからないが、どちらにせよ会社が無傷ですむとは思えない。
今後の経営がうまくいくためには、今回の株主総会でどちらかが一方的に勝つよりも、今後お互いの「良いところ取り」をした協力体制をいかに作るか、が最も緊急かつ重要な課題に思える。
競争相手は外におり、しかもそのたくさんの競争相手はそれぞれが相当強力で、それも命がけで経営をしているのだ。
中で戦っている余裕は無い。
創業者の手法を「時代遅れ」と切り捨てるのではなく、また次世代の経営者を「理屈でメシが食えるか」と馬鹿にするのでもない。
前述のオーディオシステムも「CDにするか、レコードにするか」で悩むのではなく、その都度聴きたい時に聴きたいほうで聴けば良い。
つまり「良いところ取り」をすれば良いのだ。
真理は至ってシンプルなのかも知れない。
どう伝えるか
ずいぶん前の話だが、新聞のコラムにこういうのがあった。
国立統計数理研究所での調査資料の話だそうだ。
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ある会社に「時には規則をまげて無理な仕事をさせることもあるが、仕事以外でも人の面倒をよくみる」という課長がいた、とする。
反対のタイプの課長に比べればこういう課長のほうが良い、と答えた比率は84%に達した。
ところが、この文脈を逆にして「仕事以外でも人の面倒をよくみるが、時には規則をまげて無理な仕事をさせることもある」という文章にしたこの課長を選ぶ人は47%に激減したそうだ。
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同じことを言ってもその言い方で印象が良くなることも悪くなることもある、ということだ。
経営者が社員に対して何かを伝えるとき、「何を伝えるか」が最も大事なのは分かっているが、「どう伝えるか」も同様に大事だということがこれで分かる。
社長から社員を見たときの距離感と社員から社長を見たときの距離感は大きく違う。(社長から社員を見たときの距離感のほうが断然近い、残念ながら社員は社長が思うほど社長を親しい存在とは思ってくれないのだ)
そこで最初の話に戻るのだが、「分かってくれる」と思って話すと誤解される。
最初から「分からないものだ」と思って話すと真意が伝わる。
「顧客に対する営業は天才的だが社員に対してつい手を抜いてしまう」という社長がいるが、それではなかなかうまくいかない。
よく「社長業は孤独だ」というが、本当の理由はこの辺にあるのかも知れない。
最近の傾向
20年以上人事コンサルをやっているが、その時代々々で企業のニーズは明確に変化してきた。
私の事務所で言えば、20年〜15年くらい前は世の中の企業経営もかなり厳しい時代で、リストラや解雇の仕事が多かった。
15年〜10年前くらいは危機管理と組織活性の両面からの要請で、人事システム構築などの仕事が多かった。
この10年ほどで社員の教育ニーズが高まり研修や勉強会の仕事が増え、更にここ5年ほどで採用ニーズが高まっており、面接に同席して欲しいという要請が増えている。
これはこの20年の世の中の状況の変化をよく表している。
このところ採用に意欲的な企業が増えてきたのは良いことだが、採用ができる時代(状況)になったからといって、ただやみくもに採用すれば良いというものではない。
昔の採用と今の採用は全く違うということを分かっていないと大きな失敗をすることになる。
これからの時代は「緻密な採用」をしなければいけない。
時代が複雑になり、組織も業務も複雑になるにつれ、人の問題も複雑になっている。それをできるだけシンプルにして会社を活性化することが必要で、採用はその一番最初の入り口となるのだ。
採用で手を抜くと後々大いに困ることになる。
経営者の中には、採用が苦手だと言って面接に出てこない人がいるが、これは大きな間違いだ。
「誰を採るか」は経営者の最も重要な仕事の一つだ。
米大手IT企業などで急成長しているところは毎日何百人も面接しているが、最終決定時には必ずトップが出てきて自ら判断する。
数年で何万人も採用しているから大変な業務量なのだが、そこは絶対に手を抜かない。そこをサボると急成長に耐えられる組織にならないことを知っているのだ。
今どきは新卒でも中途でも採用支援会社が多いが、支援会社はあくまで採用の支援に過ぎず、採用そのものは自社でやらなければならないし自社でやるべきものだ。
私も顧問会社の採用に借り出されるが、その時は必ず社長を引っ張り出し面接に同席させることにしている。
気がついていない社長も多いが、その会社の一番の武器(魅力)が社長であることが多く、それを使わなければ本当に良い人材は採れない。
振り返ってみれば、確かに社長が採用に熱心な会社には元気な会社が多いように思う。
プロ経営者?
最近よく「プロ経営者」という言葉を耳にする。
ビジネス誌でも特集が組まれたり、新聞でも大きく取り上げられたりしている。
年俸何億も払ってオーナーが外の人材を雇うケースが日本でも出てきた。
しかし、何か違和感を感じて仕方がない。
確かにきちんと結果を出せる人もいるが、私の見たところそういう人は10人に1人いれば良いほうだ。
たとえば今回ベネッセ社長に転身した原田氏。確かに人間的な魅力はありそうだが、今回本当に経営者として結果が出せるのだろうか。
現在、古巣のマクドナルドは業績の悪化が止まらない。理由はいろいろあるとは思うが、結局は中途半端な改革をやり続けたことが原因だろう。
本来オーナー経営者であれば本当に会社を良くするために本質的な施策を実行するが、期間限定の雇われ社長にはなかなかそういうことができない。
どうしても見栄えを気にした「短絡的」で「表面的」な経営になりがちなのだ。これは本人の問題でもあるが、仕組みの問題でもある。
1年から2年で会社を転々とする雇われ経営者もいるほどだ。
私が言いたいのは、「オーナー経営者は安易に外からプロ経営者などを招聘するべきではない」ということだ。
自分と同じくらい命を懸けて経営をしてくれるだろうと期待する気持ちは分かるが、そういう人はまずいないと思ったほうが良い。
ついでに言うと、私は一見良さそうに見える今回のサントリーも心配している。
経営にカツを入れたいのであれば、ソフトバンクの永守氏のように「恐い社外取締役」にとどめるべきだ。
やはり経営者が経営するに限る。人に頼んで楽をすると、必ずどこかでしっぺ返しが来るものだ。
人材採用
先日ある経営者と話をしていて「人の採用」の話になった。
今採用がとても難しいという話になり、どうすれば良いか分からないと言う。
いろいろな経営者が良くそう言うのだが、話を聞いてみると問題は採用側にあることが多い。
まずは「何のために採用するのか」がはっきりしていない。よって「どういう人を採用するのか」もはっきりしていない。
これでは採られる側もピンと来ない。優秀な人ほど採れないことになる。
私は以前、三菱系の大手コンピュータ会社の評価面接にかり出されたことがある。
社長と専務と私の3人が面接官で、相手は事業部長、部長、課長。総勢30名ほどを一人ずつ呼び出し順次面接するというものだった。
そこで人事の責任者を面接した時に、「技術系学生の採用目標60名を達成しました」と言い満足そうにしていたのを見て「これはあかん」と思い強くダメ出しをしたのを覚えている。
その会社のその時の課題は「競合に打ち勝つ強い組織にする」というものだった。
「どういう人を採るか(どういうタイプの学生か、どのくらいのレベルが必要かなど)」が最も重要で「何人採るか」は次の問題だったのだ。
相当厳しく人事部長をいじめてしまったが、後で社長には大変感謝された。
問題意識のない採用を漫然と繰り返していると、いつの間にか力の無い会社になってしまう。
5年後10年後を考え、今自らに大きな負荷をかけ採用しなくてはいけない。
採用で楽をすると先々とんでもないしっぺ返しが待っているものだ。
どの会社にも言えることだが、なかなか出来ていないのが実情だ。
この問題意識は経営者にしか分からない。
経営者の皆さん、採用はトップの仕事だということを忘れないように。
ウェイン・ショーター
ウェイン・ショーターをオーチャードホールに聴きに行った。
現在80歳。
ウェイン・ショーターというのはジャズの世界ではとても有名な人で、過去に大物ミュージシャンとの幾多の素晴らしい演奏を残している。
数年前に聴いた時は体調が思わしくなかったのか、だいぶ衰えたように見えたが、今回は凄かった。
信じられないような集中力とパワーを見せてくれ、さらに緻密でかつ自由で新しい、あの独特なウェイン・ショーターの世界を満喫させてくれた。
ずいぶん前に経営者の間でサミュエル・ウルマンの「青春(Youth)」という詩がブームになったことがあるが、まさにそれを地でいく今回の演奏だった。
“YOUTH” Samuel Ulman
Youth is not a time of life -it is a state of mind ; it is a temper of the will, a quality of a imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love of ease.
Nobody grows old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul
Worry, doubt, self-distrust, fear, and despair ― there are the long, long, years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.
Whether seventy or sixteen, there is in every being’s heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undouted challenge of events, the unfailing childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.
You are as young as your faith, as old as your doubt; as young as your self-confidence, as old as your fear, as young as your hope, as old as your despair.
So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur, and power from the earth, from man and from the Infinit, so long you are young.
When the writer are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cyncism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.
《日本語訳》
「青春」 サミュエル・ウルマン
青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。
曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。
以上がサミュエル・ウルマンの「青春」で、とても真理をついている。
少し大仰ではあるがウェイン・ショーターを観てこれを思い出した。
経営者にも、たまに歳を聞いてびっくりするような若々しい人がいるが、恐らくこういうことなのだろう。
どこの世界にも凄いのがいると改めて感じたコンサートだった。
どこで「くくる」か
変なタイトルだが、、最近これが気になっている。
例えば、今世界で一番基本的なくくりと言えば「国」だろう。
だからロシアと揉めたり、中国と揉めたり、日米韓で会議をしたり、いろいろしている。
もう少し大きなくくりとしては、EUや中東、東アジア、アフリカ、はたまた環太平洋圏など、さまざまある。
先進国、途上国、新興国などでくくることもある。
規模の大きなくくりとしては、地球、太陽系、銀河などがある。余談だが、銀河には大きなものだと10兆個もの星が集まった超巨大銀河もあるそうだ。大小取り混ぜると全宇宙には1700億個の銀河があるらしい。だから確率的には何兆種類という地球外生命体が宇宙には居ると考えられる。
まあそれは良いとしてくくりの話に戻すと、地球上の生物も「人間」でくくったり「動物」や「植物」でくくったり「鳥」「魚」などでくくることもできる。
日本の中で言えば、関東、関西、東北などでくくることができるし、もう少し小さく都道府県や市、町でくくることもできる。
人間にとって興味関心がある最小の単位と言えば、まず「自分」がある。次に「家族」や「友人」「会社の仲間」など、だんだん規模が大きくなっていく。
会社の中にも「事業部」「部」「課」「チーム」などのくくりがある。
会社の外にも「業界」などのくくりがあり、また「メーカー系」「販売系」「サービス系」など業態でくくることもできる。
なぜこんなことを書くかというと、「どこでくくるか」がいろいろな場面で重要だと感じるからだ。
「どこでくくるか」でいろいろな問題が生じることもある。また逆に「どこでくくるか」で問題解決の糸口になることもある。
たとえば、世の中から「国」のくくりが無くなればおそらく戦争は相当減るだろう。そうなればアフリカの貧困や子供の餓死等も人類全体の問題となり(本当は今でもそうなのだが)、現状より数段解決できる可能性は高くなる。ユニセフや国境なき医師団なども、もっと地球レベルで自由に活動できるようになる。
少し小さな話になるが、「会社の業績を上げる」ということも「会社」でくくるからそうなるのであって、「会社のステークホルダー」でくくれば「社員、株主、取引先、顧客、地域」などまで考えることになる。
そう考えることが自分の行動の質を上げ、結局は会社の業績を上げるのではないか。
「自分の」という発想が「自分の部署の」につながり、それが「会社全体の」になり、人によっては「業界の」「日本の」にまで影響を及ぼすこともできるかも知れない。
常に「より大きな全体最適」を意識して動く。これからの経営やマネジメントには、今まで以上にこの感覚が必要になるように思う。
フィギュアスケート
ソチオリンピックのフィギュアスケートで、キム・ヨナの最後の演技が素晴らしかった(ように思う、スケートは素人なので良くわからないけれど)。
完璧なまでに音楽と一体化して自分を表現していた。
他の選手は高い得点を取るために難しい技を音楽と関係なく組み込み、(私から見ると)少々不自然な演技であったのに対し、キム・ヨナのは一つの芸術作品のようだった。
だいぶ以前だが、荒川静香が現役を引退しプロになるにあたり「これからは高さやスピードでびっくりさせるのではなく美しさでうっとりさせる」ことを目標にするというようなことを言っていた。
今回のキム・ヨナは、すでにその心境でオリンピックに臨んでいたのかも知れない。
いろいろな意味で、とても立派な演技だと思った。
スケートの採点基準は、まさに評価制度そのものだ。企業でいえば、評価制度とは高いパフォーマンスをあげる社員をたたえるためのもので、それにより様々な報酬を与え結果として皆がその姿を目指すことになる。
しかし、たまに会社によっては「評価制度に従って厳格に評価をするとどうも結果がしっくり来ない」というところがある。
こういう場合は、大体においてその「しっくり来ない」という感覚のほうが正しいのであって、評価の仕組みのほうがおかしいことが多い。経営者の求める人物像が評価に反映していないことが原因で、そのまま放っておくと会社がだんだん衰退していくことになる。
話をフィギュアに戻すと、今のフィギュアがそれに近いように感じる。
採点のための演技では意味がない。
もっとフィギュアというものの存在意義や価値を正しく捉え、いろいろ改善すべきだ。そうしないと、会社が衰退していくのと同じようにフィギュアスケートという競技自体の人気がなくなっていくことになる。
まるでミュージシャンの演奏を聴いて「あそこで指がたくさん動いたからこの演奏は素晴らしい」と言っているようなものだ。
絶対におかしいと思うのだけれど、こんな感覚は私だけなんだろうか。