市川人事労務コンサルタント事務所

よもやま話

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よもやま話 その他・諸々編

どこで「くくる」か

変なタイトルだが、、最近これが気になっている。

例えば、今世界で一番基本的なくくりと言えば「国」だろう。

だからロシアと揉めたり、中国と揉めたり、日米韓で会議をしたり、いろいろしている。

もう少し大きなくくりとしては、EUや中東、東アジア、アフリカ、はたまた環太平洋圏など、さまざまある。

先進国、途上国、新興国などでくくることもある。

規模の大きなくくりとしては、地球、太陽系、銀河などがある。余談だが、銀河には大きなものだと10兆個もの星が集まった超巨大銀河もあるそうだ。大小取り混ぜると全宇宙には1700億個の銀河があるらしい。だから確率的には何兆種類という地球外生命体が宇宙には居ると考えられる。

まあそれは良いとしてくくりの話に戻すと、地球上の生物も「人間」でくくったり「動物」や「植物」でくくったり「鳥」「魚」などでくくることもできる。

日本の中で言えば、関東、関西、東北などでくくることができるし、もう少し小さく都道府県や市、町でくくることもできる。

人間にとって興味関心がある最小の単位と言えば、まず「自分」がある。次に「家族」や「友人」「会社の仲間」など、だんだん規模が大きくなっていく。

会社の中にも「事業部」「部」「課」「チーム」などのくくりがある。

会社の外にも「業界」などのくくりがあり、また「メーカー系」「販売系」「サービス系」など業態でくくることもできる。

なぜこんなことを書くかというと、「どこでくくるか」がいろいろな場面で重要だと感じるからだ。

「どこでくくるか」でいろいろな問題が生じることもある。また逆に「どこでくくるか」で問題解決の糸口になることもある。

たとえば、世の中から「国」のくくりが無くなればおそらく戦争は相当減るだろう。そうなればアフリカの貧困や子供の餓死等も人類全体の問題となり(本当は今でもそうなのだが)、現状より数段解決できる可能性は高くなる。ユニセフや国境なき医師団なども、もっと地球レベルで自由に活動できるようになる。

少し小さな話になるが、「会社の業績を上げる」ということも「会社」でくくるからそうなるのであって、「会社のステークホルダー」でくくれば「社員、株主、取引先、顧客、地域」などまで考えることになる。

そう考えることが自分の行動の質を上げ、結局は会社の業績を上げるのではないか。

「自分の」という発想が「自分の部署の」につながり、それが「会社全体の」になり、人によっては「業界の」「日本の」にまで影響を及ぼすこともできるかも知れない。

常に「より大きな全体最適」を意識して動く。これからの経営やマネジメントには、今まで以上にこの感覚が必要になるように思う。


フィギュアスケート

ソチオリンピックのフィギュアスケートで、キム・ヨナの最後の演技が素晴らしかった(ように思う、スケートは素人なので良くわからないけれど)。

完璧なまでに音楽と一体化して自分を表現していた。

他の選手は高い得点を取るために難しい技を音楽と関係なく組み込み、(私から見ると)少々不自然な演技であったのに対し、キム・ヨナのは一つの芸術作品のようだった。

だいぶ以前だが、荒川静香が現役を引退しプロになるにあたり「これからは高さやスピードでびっくりさせるのではなく美しさでうっとりさせる」ことを目標にするというようなことを言っていた。

今回のキム・ヨナは、すでにその心境でオリンピックに臨んでいたのかも知れない。

いろいろな意味で、とても立派な演技だと思った。

スケートの採点基準は、まさに評価制度そのものだ。企業でいえば、評価制度とは高いパフォーマンスをあげる社員をたたえるためのもので、それにより様々な報酬を与え結果として皆がその姿を目指すことになる。

しかし、たまに会社によっては「評価制度に従って厳格に評価をするとどうも結果がしっくり来ない」というところがある。

こういう場合は、大体においてその「しっくり来ない」という感覚のほうが正しいのであって、評価の仕組みのほうがおかしいことが多い。経営者の求める人物像が評価に反映していないことが原因で、そのまま放っておくと会社がだんだん衰退していくことになる。

話をフィギュアに戻すと、今のフィギュアがそれに近いように感じる。

採点のための演技では意味がない。

もっとフィギュアというものの存在意義や価値を正しく捉え、いろいろ改善すべきだ。そうしないと、会社が衰退していくのと同じようにフィギュアスケートという競技自体の人気がなくなっていくことになる。

まるでミュージシャンの演奏を聴いて「あそこで指がたくさん動いたからこの演奏は素晴らしい」と言っているようなものだ。

絶対におかしいと思うのだけれど、こんな感覚は私だけなんだろうか。


地井武男

先日亡くなった地井武男が出演していた「ちい散歩」という番組が終了したが、このところまた違った形で注目されている。

本が売れたりDVDが売れたり、また都内のデパートで関連イベントが開かれたりしている。

決してドラマでも大作でもない単なる一番組としてはとても珍しいことだ。

この番組は、地井武男が下町などを散歩して、そこに住んでいる人達と軽口を叩きながらその町を紹介して歩く、というものだった。

最初は「とりあえず始めてみました」というような番組だったが、これが意外と人気が出て何と6年間にわたり1500回以上も続いたそうだ。

役者だった地井武男には失礼だが、この「ちい散歩」は彼の代表作と言ってもいいように思う。

シナリオも決められたセリフも何も無い、全編アドリブという役者にとっては普通苦手とされるものだったように思うのだが、これを彼独特の大いなる自然体でやり切っていた。

こういうことができる能力というのは、元々持っていたものかも知れないが、それまでの役者という仕事を通して少しずつ身につけたものでもあるのだろう。

この番組を企画したプロデューサーは、なかなか人事のセンスがあったように思う。きっと、番組の内容より配役が先にあったのだ。

無理矢理人事的にいえば、これはまさに日本的な「職能給」の発想だ。欧米の職務給の発想だと、こうはならない。

「これができる人を探してこよう」ではなく、「この人に何をやらせようか」なのだ。

この発想がピッタリはまった。

最近の馬鹿騒ぎするばかりのテレビ番組の中で、昭和の香りのする独特な味のある番組だっただけに少々残念に思う。


おかしなこと

いま、世の中でおかしなことがたくさん起こっているように思えてならない。

例えば最近2回続いたことだが、救急車で事故にあった怪我人を病院に搬送する際に、病院が受け入れに難色を示した為たらい回しになり、病院に着いた時には手遅れで二人とも亡くなってしまった。

佐賀の玄海原発を再開するかどうかでは、決定権は地元の玄海町と佐賀市が持っているとのことだが、実は原発の半径10km以内には隣の唐津市の人口のほうが遥かに多いらしい。
でも、唐津市には原発再開に異議を唱える権限が無いそうだ。

数え上げればきりがない。

誰でもちょっと考えれば分かることなのに、そのまま放置されている。
企業ならすぐに手を打って解決してしまうだろう。
簡単なルールを作るだけで全て解決できることばかりだ。

本来国会はそのためにある。

政府もどうしようもないが、国会もどうしようもない。
国会議員が馬鹿ばかりになってしまった。

賢いのが国会議員になるような仕組みを作れないものだろうか。
世の中には優秀な人はいっぱいいるのに。

このままだと政治家の質が下がる一方で、政界が芸能界のようになってしまう。
「総理大臣にしたい人」でタレントの名前が上位を占めるのを見ると情けなくなる。
国民の意識の程度も毎年低下してるのかも知れない。

この程度の国民だからこの程度の政治家だと言うことなのか。

うーむ。
やっぱり何とかしなくては。

2011年7月20日

その他・諸々編


ミシュラン

先日テレビを見ていたらレストランを取材する番組があった。

その常連客らしい若い男性がインタビューに答えて、「ここはミシュランの星持ちの中で、一番ランチが安いんですよ。」などと、したり顔で言っているのを見て、「あー気持ち悪い。」と思ってしまった。

なぜそう感じたかは分からないが、とにかく気持ち悪さとある種の恥ずかしさを感じたのだ。
マニュアル通りにしか生きられないのか君は、ということかも知れない。
または、まわりに合わせて調子良く振る舞うことがそんなに楽しいか、という感じなのかもしれない。

なんだ、その「ミシュランの星持ち」という軽さは。
そして、なんだその和食のことも分からぬ外国のグルメ本を無条件に受け入れてしまう分別の無さは。

日本には以前から多くのグルメ本があり、それぞれがなかなかの視点で独自の取材を行っている。
これらの中には読み応えのある面白いものも多いのだが、ミシュランが日本版を出すことになった時、それまでの日本のグルメ本を一蹴する勢いで大変な話題になった。

この時の大騒ぎに私は大変違和感を覚えた。

外国のものを有り難がるのも良いが、良く考えればもうすでに日本は経済や経営等は言うに及ばず、食文化もサブカルチャーも(今や映画も国産の方が良く入っているそうだし)世界に通用するものを持っている。

それが「ミシュラン、ミシュラン」と騒いでいるのがよくわからない。

良かった店がミシュランに載って一年経たないうちに特徴のないただの高級店になってしまったり、特に職人気質のオーダーメード感覚の店が時間制のオートメーション化されたような店になってしまったりしている。

もともとミシュランはフランスのタイヤメーカーである。
この「フランス」というイメージと「ミシュラン」という心地よい響きが、多くの愚かな(と言って良いかどうか分からないが)日本人の心をくすぐって、件の「ミシュランの星持ちの中で・・・」の気持ち悪いセリフに繋がっているのだろう。

これがミシュランでなく横浜ゴムだったらどうだ。
「これは横浜ゴムの星持ちの中で一番ランチが安いんですよ。」などと、したり顔で言うだろうか。
それはそれで気持ち悪いが・・・。

これは、たまたまミシュランの話だが、全てに言えることだ。
馬鹿みたいな話だが、今の日本にはこういうことがたくさんあるように思う。
浮ついた風潮にさして疑問も持たず、安易に同調するのが時流だと思っているかのようだ。

ミシュランの取材を断っている立派な店がある。

そうは言っても、なかなか断ることはできないことなのだろう。
だから余計に思うのだが、まわりの風潮に惑わされないで自分を貫いているその信念を、我々も見習って生きて行きたいものだと思う。


末期的自民党に何を学ぶか

今日は09年8月24日(月)、衆議院総選挙の1週間前だ。
選挙戦の真っ只中で、麻生氏がアップになった自民党のTVCMや新聞広告が氾濫している。

とてもアップに耐えられる顔とは思えないし広告効果があるとは思えないのに、なぜあんなものを露出しているのだろう。
しかも話の内容も程度が低いものばかりだ。

麻生氏本人のことはどうでも良いが、この状態が放置されているところに今の自民党が抱える大きな問題がある。
恐らく、もはや麻生氏に対し本気で助言するものは一人もいないのだろう。もし一人でも自民党のことを本気で思っている者がいるなら、あの情けない顔のアップや程度の低い話などやめさせているはずだ。自民党全体が麻生レベルになってしまっている。こんなことは今までなかったことだ。

皆、勝つことを諦めているか、たとえ負けても麻生のせいだからその時は自民党を出ればいいとでも思っているのだろう。
TV討論で、日に日に自民党の支持率が急降下していることを田原総一朗に指摘された麻生氏は、「日々手応えは上昇している。新聞の調査がおかしい。」と本気で反論していた。
もう組織の責任者としては末期症状だ。

これは企業経営で失敗する時の典型的なパターンだ。

能力のない経営者と調子のいい取り巻き、いつでも逃げる準備をしている無責任な社員しかいなければ、会社は潰れる。

社長に本気で助言できる人材がいないと会社は潰れる。しかしこれを社員のせいにしてはいけない。
原因は経営者、あなたにあるのだ。
「助言できる幹部がいない」というのは「あなた(社長)が幹部に助言させないようにした結果」なのだ。
つまり自業自得だ。

経営者は社員が自由にモノを言える環境を作らなければいけない。ただ、これは社員に「ナメられる」ことや「好き勝手させる」ことではない。
あくまで経営者は「怖い存在」でありながら「話をしやすい」環境を作るのだ。

経営者は自分が「麻生病」にかからないようにしなければならない。あそこまでひどいのはなかなかいないが、大なり小なり似た症状に陥ることがある。
自分を冷静に見て常に気をつける必要がある。

威張り散らしてばかりでは離れていく。愛想が良いだけではナメられる。
本気でに会社のこと、社員のこと、事業のことを考えていることが大前提で、その上で「厳しさ」と「愛」を持っていなければ、今や経営者はつとまらない。

今のままだと来週の総選挙は自民党の大敗になるだろう。
ギリギリで身体を張った救世主が出てくれば違った結果になるかも知れないが、可能性は少ない。


プロ野球の査定

以前、仕事でセントラル野球連盟(セリーグ)を訪れたことがある。私はそれほど野球に詳しくないのだが、前から球団が行う選手の査定には興味があった。

聞いてみると、セーブがつく条件など、思っていたよりはるかに細かいので驚いた。他にも、たとえばノーアウト1塁でバッターが送りバントをした場合はプラス査定だが、2塁走者を3塁に進めるために1塁側に打ったゴロはどう扱うのか等、悩ましいケースがいくらでもあるそうだ。

いくら細かく評価項目を設定しても、その手のケースはとても捉えきれない。いや、細かくすればするほど実際の貢献度と離れていくようにも思える。

企業の評価もしかり。

客観性を重視しすぎると納得度が低下することがある。ある人が、「評価者が自分の人生を賭けて超主観的に評価したほうが、よっぽど相手に納得される」と言っていた。
大いに考えさせられる問題だ。


フィギュアスケートの採点方式

オリンピックで荒川静香が金メダルをとったフィギュアスケートだが、ここ最近で採点方式が変わったそうだ。関係者が言うには「採点方式が変わったので演技が変わってきた」とのことだ。

これは人事で言えば当たり前のことで、評価システムが変われば社員の動きが変わる。評価の仕組みや評価項目が常に経営理念や経営方針を表していなければならないという理由はそこにある。目先のことや枝葉末節に基づいた評価は会社を駄目にする。

では今回のフィギュアスケートの新評価システムはどうなのだろうか。今後フィギュアスケートのファンが増え、選手になろうとする少年少女が増えたなら良い制度改革だったと言えるが、逆に人気が無くなり誰も関心を示さなくなったら失敗だったことになる。

結果が出るまでに時間がかかるだけに本当は慎重に進めなければならないことなのだが、逆に結果が出るまでに時間がかかるために責任が問われないことや、企業のように失敗がはっきりした形で表れないことなどから、どうしても取組み姿勢が甘くなっているように見える。変更した機関は果たしてどこまで考えて変えたのか、いささか疑問だ。

荒川静香は、先日プロ宣言をした。「これからは目の肥えたファンを納得させることが仕事になるので、オリンピックよりよっぽど大変です。」と言っていた。何回まわったとか、どれだけ難しいことをやったということより、フィギュアの本来の価値である「観客をいかに感動させることができるか」で勝負するようになる。

プロとしてたくさん稼げるかどうかが、まさに彼女の評価の結果だ。理屈で作った形だけの評価システムではない。

このあたりは人事の本質に近い。

人事制度を超える社員

荒川静香がオリンピック決勝のフリー演技でイナバウアーという技を行った。これは前項で言った採点方式の変更で、今回から得点にはならないそうだ。

その技を行った瞬間、観客からとても大きな拍手が沸き起こった。おそらく観客はそれが得点にならないことや、新採点方式で荒川静香が高得点を取れなくなり、以前引退を覚悟したなどの経緯も知っていたのだろう。演技が終了したときのスタンディングオベーションも熱狂的なものだった。

私が興味を持ったのは、「なぜ荒川静香は点にならないことをやったのか」、「なぜ観客はそれに対して惜しみない拍手を送ったのか」だ。

彼女は会社で言えば、「評価制度では捉えられないレベルの自己実現に果敢にチャレンジしたハイパフォーマー社員」といえるだろう。信念で行動し、かつ自己責任で結果を出した。自分の役割を全うするために自分で進んでリスクをとり結果を出した。人事制度を超えた(評価を意識せず自分のやるべきことを理解し使命感を持って行動した)稀に見る優秀な社員だ。

政治学者の丸山真男は「自分は何をなすべきか。国家を超えた基準を持たないといけない。個人が内在する原理を持っていないと、時勢に流され、ひいては国を誤ることになる。」と言っている。住んでいる世界は違うが、同じことを言っているように私には思える。

また、陶芸家の河井寛次郎は「美を追わない仕事、仕事の後を追ってくる美」と言っている。自分の作品に銘を入れないことでも知られるこの作家は、自分のやるべきことを徹底して追求し、とことん中身にこだわった。
これも同様だろう。

しかし、こうした精神や仕事に対する取り組み姿勢を会社全体で共有しようとするのは、極めて難しい作業だ。「イズム」や「理念」が最近見直されているが、これからは理念や精神、風土や文化をどう創り育てていくかが、ますます重要になってくるだろう。

ルールのみで縛ろうとすると失敗する。企業文化やイズムが主体となり、それを横からルールで支えるくらいがちょうど良い。